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田瓶市(たがめし)

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概要

 田瓶市は群馬県と山梨県の県境に位置する、総人口14万人、面積340平方キロメートルの都市である。市町村合併により旧田瓶町、本間町、沼田町、山野辺村が合併されて成立した。旧田瓶町は合併により「本町」と名称を変えたが、それ以外については地区名として名称が残存している。

地形

 関東山地のへりに位置する台地であり、関東ローム層に覆われている。市の代表的な観光地である真殿山は市の西側に位置する。

気候

 太平洋側気候に属するが、内陸性で年間の寒暖の差、一日の内の気温差が大きい。山岳に面した地形であるため上昇気流が起きやすく、梅雨から秋雨の季節にかけては台風や大型低気圧とともに湿った空気が流入し、特に猛烈な降水をもたらすことが多々ある。 また、盆地のような地理特性上、フェーン現象による高温が記録されることもある。地元では「真殿おろし」と呼ばれる冬場の西風が風物詩とされているが、同様の地形と比べて特に強い風というわけではない。

名前の由来

 雨季になると昔はよく赤川が氾濫し、田地が水がめのようになっていたことから田瓶と呼ばれるようになったという説が有力。他にも、「田亀」の異字とするものや、「田の神」「田が女」とする説がある。

風土

 古くから道祖神(お地蔵さま)信仰が根付いており、町のあちこちで道祖神がみられる。地蔵には「子や家庭を守る」「外から病や災いが入ってくるのを防ぐ」等の力があるとされるのが一般的だが、田瓶市では交通安全や商売繁盛をはじめ、あらゆる願掛けに利用されている。

 この信仰は特に沼田地区で顕著にみられ、地蔵の設置数が多いのはもとより沼田山地蔵尊や身道大社など、地蔵を主たる信仰の対象とする寺では毎年「地蔵祭」という祭事が執り行われる。

シンボル

 田瓶市の市章は「田」の字を模したものである。田瓶市の米作と、赤川のめぐみを表現したものとされる。

 ご当地ゆるキャラとして、田瓶日報が運営する「ガメゴン」がいる。亀と恐竜を合体したようなフォルムで、語尾に「~ガメ」をつけるのが特徴。体重は”米俵2つ分”が公式設定である。

歴史

古代(縄文時代~平安時代)

 関東地方の大部分が海面下にあった縄文時代、田瓶市はちょうど海と陸の境に位置しており、真殿山の山頂近くにある程度密集した生活圏が形成されていことが分かっている。真殿山見才谷遺跡もこのころ成立したとされ、出土した貝塚からも当時から栄えていた地域であったことをうかがうことができる。

 海退で生活圏が山の裾野へ移動するとともに、真殿山近くに集合していた人口が離散していった。弥生時代終期の3世紀ころには現在の山野辺地区の赤川周辺において近畿・北陸地方から移り住んだ人々によって稲作が開始されたことが分かっているが、もともと真殿山で生活していた人々がどこへ行ってしまったのかは定かではない。

 沼田荒神神社では景行天皇の命を受けた倭建命(ヤマトタケルノミコト)が東方征伐において筑波~甲斐~武蔵間で立ち寄ったとされる鉱泉場跡がある。また7世紀に斉明天皇の命を受けた阿倍比羅夫が蝦夷征討を行うにあたり東北方面へ向かう際の中継地となったことが記録されている。

中世・近世(鎌倉時代~江戸時代)

 鎌倉時代以降、1724年(享保9年)に江戸幕府直轄地となるまで、田瓶は甲斐武田氏の領地であった。大きな戦乱に巻き込まれることもなかったが、その後の発展は非常に緩やかなものだった。

 しかし江戸時代に行われた甲州街道の整備によって田瓶は再び興隆することとなる。江戸と北陸・甲信越の交易の要所として宿場町が開設されると、それにほど近かった田瓶はコメや野菜などの農作物を供給する兵站として機能しはじめた。それにより田瓶の地が知られるようになると、その豊かな自然に誘われ、宿場町の中央に居を構えることができない中・下級の鍛冶工などの職人が移り住んだ。この職人たちは太平の世の中で出番が少なくなった刀の代わりに鍬や鎌などの農耕具を打つようになる。品質のよい農具が地元の農民の手に渡り、農業と工業がそれぞれ支えあって発展していく田瓶市の基礎が成立した。

近代(明治以降)

 19世紀後半に入ると、現在の田瓶の姿がより明確となってくる。1889年に町村制が施行されると田瓶市の前身となる4つの村が誕生した。

 1895年、田瓶市の鉄道国鉄王港線(現JR王港線)が開通し田瓶駅、本間駅が開業すると旧田瓶町を中心に急速な近代化を遂げた。1930年に整備された私鉄の津田線により、観光資源を有する沼田地区、山野辺地区や、当時国内有数規模を誇ったにも拘わらず「陸の孤島」と揶揄された若宮国際大学(当時は旧制私立学校)が接続され利便性が格段に向上した。

 昭和40年、合併特例法の施行を受け、旧田瓶町、本間町、沼田町、山野辺村が併して現在の田瓶市が成立し、昭和終期には北関東を代表する街へと変貌した。最盛期の26万人から人口自体は減らしているものの、「北関東の住みたい街ランキング」で20位にランクインするなど現在でも人気は衰えていない。

産業

商業

 田瓶市は市のブランド発信に力を注いでおり、地元企業世も協力してさまざまな施設でアンテナショップを展開している。

農業

 田瓶市では古来から赤川の豊富な水資源を活用し、農耕が広く行われてきた。昭和終期の減反政策をいち早く懸念した地元農協はより高付加価値な作物へのシフトを志向したため、農家廃業率を全国平均よりはるかに低く保つことに成功している。

 また、真殿山では山菜の収穫が盛んにおこなわれている。アシタバ、ワケギ、タラの芽や、タケノコ、ヒラタケ、ナメコなどのキノコ類がよく収穫される。田瓶市ではこれら山菜を使った山菜ラーメンをご当地料理として売り出している。

工業

 田瓶市では関東ローム層から出土する粘土が豊富に参集されたことから鎌倉時代以降焼き物が盛んに行われてきた。北関東では笠間焼、益子焼の影に隠れているが質素でありつつも割れにくい陶器として知られている。田瓶市の名産品となっているさんざん焼きは、1582年、甲州征伐の供養として製作されたことに端を発する。

 江戸時代より金属加工を得意としてきた田瓶には、唯一無二の技術を持つ中小企業が軒を連ね、全世界を相手にしたビジネスを展開。情報共有や人材補完、田瓶ブランドの発信を行う中小企業連合を市が公認、バックアップする「田瓶パートナー制度」を2016年にスタートし、「たがめ兄弟会」がその第1号承認を取得した。

田瓶市を拠点とする主な企業

交通

鉄道

 田瓶市には高崎方面から伸びるJR王港線と、田北鉄道株式会社が運営する私鉄津田線が市を南北に貫いて通っている。

バス

田瓶市内のバスは、田北鉄道株式会社より事業継承した村田興業が運航している。

道路

 主要道路は国道69号線であり、田瓶市を南北に走る道路として整備されている。また、平成2年に整備された柳-金升トンネルは将来人口が増えた場合に新交通システム(横浜や金沢のシーサイドラインを想定)への転換が可能となるよう設計されている(初期構想では山野辺まで延伸予定だったが費用対効果が見込めず断念された)。

 山梨県赤岳方面に抜ける足引スカイラインに接続する有料道路入り口が山野辺にあり、ぶどう狩りシーズンには道が混雑することもある。

医療

主な医療施設は以下のとおり。

教育

高等教育

初等教育

田瓶市出身の著名人

事件・事故

伝承・都市伝説

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