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清田洞爺

清田洞爺(きよたとうや)

 清田洞爺は日本の小説家1912年(大正元年)-1964年(昭和39年)。本名は清田康夫。作品数は多くなく、またひとつひとつの作品は短いものが多いが「鬼気迫る」「狂気靡く」と評される作風が特徴である。

生涯

 大正元年(1912年)、現在の青森県五所川原市で呉服屋を営む清田敏夫とキネのもとに生まれる。姉が一人いたが、清田が1歳になる前に4歳で病死している。幼少から小学校では神童とも呼ばれ学科によらず稀代の学績を残した。小学校卒業時には「町選優秀学童賞」に輝いたが中学に入り嫉妬した同級生からいじめを受けるようになり、学校を休みがちになった。それでも優秀な成績を残し、半ば逃げるように仙台の高等学校へ進学する。進学先では青葉台の学生寮に住んだが、引っ込み思案な性格は抜け出せず、寮と学校を行き来する生活が続いた。一日中の大部分を自室で勉学に当てて過ごしたため、学科を横断して深い知識を習得。これが後々の清田作品に深みと広がりを与えることになる。反面、運動不足や栄養不足が重なり左目に深刻な視力低下をもたらす。20歳になる前に清田の左目はほとんど見えていなかったとされる。その後、東京帝国大学法学部に進学。清田の体調を心配した両親は学生寮ではなく千駄木にある高齢の大叔母の家に預けることにした。しかし最高学府への入学を果たした清田は突然学習意欲を喪失。せっかく合格した帝国大学を一年次で中退してしまう。

 清田は大学退学後も東京に居座ろうとしたようだが、まもなく大叔母が急逝したため千駄木の家を引き払い、五所川原に戻って引きこもり生活を始める。その後5年間は何をするわけでもなく思い耽る日々を過ごした。1937年、26歳の夏、親戚のつてで小さな印刷会社に働き口を見つけた。清田はこの会社社長の姪である渡会ヨネと懇意になり、晩年まで連れ添うこととなる。この時代には珍しく入籍しなかった清田とヨネは事実婚のまま生涯を終えている。籍を入れなかったのは清田が極端に子を持つことを嫌ったためである。

 1939年に太平洋戦争が勃発すると日本中の生活水準が低下した。体が強くなかった清田は実際に栄養欠乏の気が色濃く出ていたようで、会社を休みがちになった。翌年には常に杖が必要なほど清田の体力は衰え、不幸中の幸いかこれが原因で徴兵を免れることになる。清田は病床で処女作『春と蛤』を執筆したが、この作品が日の目を見るのは太平洋戦争が終わった1947年、清田が35歳の時のことである。当時の作家としては遅咲きといえる。このころほぼ別居状態にあったヨネは養子に戦災孤児であった薫子(当時5歳)を家庭に招き入れる。薫子は清田姓ではなく渡会姓を名乗った。清田は薫子を無視し、清田が没するまで二人の間に会話はほとんど存在しなかったという。

 『春と蛤』以降、清田はいよいよ執筆に精を出すようになる。薫子の存在もあってか、執筆活動に没頭するため清田は1947年に田瓶市にひとり移住した。これが現在の清田洞爺記念館となっている。「寝る間・食う間も惜しんで執筆に明け暮れた(毛総新聞インタビュー記事より)」とされ、『塵塚怪王』『木瓜』『銀の鍵』などを立て続けに発表した。これら作品のプロットは、清田が大学中退後引きこもっていた約5年の間に組み立てられたものと言われている[要出典]。しかし清田の暗く激しい作風は同時の人々にあまり受け入れられず、販売部数は低迷した。それでも作品を出版することができたのはヨネが出版社のつてで田瓶地域の文学同人会(のちの毛総文芸振興会)に働きかけたためであることが晩年の回顧録の中で記されている。清田を心配したヨネは、薫子が嫁入りした1958年に後を追って田瓶市に移住する。清田がいよいよスランプに陥っていた時期であり、ヨネのサポートがなければ清田の死が5年は早く訪れていただろうと言われている。

 1950年代後半から没するまで、清田は憑りつかれたかのように執筆活動を続けたとされるが、世に文学を送り出すには至らなかった。書いては消し、書いては消しを繰り返した結果、清田の腕には消えない黒鉛の跡が残り続けていたという。1964年秋、苦しみぬいた末、骨と皮ばかりになって自宅で死亡しているところが発見される。書斎にはヨネも立ち入りが禁じられていたため、遺体が発見されたのは死後二週間が経っていた。

作風

 ロシア語が堪能だった清田はドフトエフスキーやツルネーゲフといったロシア文学を原典で読み漁り、これが清田洞爺文学の礎になったとされる。日露戦争以降外国文学の締め付けがあったとされるが、へき地であった田瓶図書館は検閲を逃れていたとみられる。そのほか、国内文学では国木田独歩や田山花袋などを好んで読んだとされ、影響を受けたとみられる文体も散見される。

 清田洞爺の作品には悲劇的末路をたどるものが多い。洞爺文学の研究からは社会風刺ではなく人の世全体を呪詛している、と解釈されている。また、落語における怪談噺と構成が近しいとする評者もいる。主人公に強く感情移入し、読者を物語に引き込む描写を好んだ。主人公が延々と語り続ける独白体形式や、登場人物らの手紙や日記の体裁で書き下す書簡体形式が効果的に使用されている。

 実名は掲載されていないものの小説の舞台には田瓶地域を扱ったものが多い。清田が足しげく通ったとされる青池温泉郷や真殿山、赤川をモチーフとしたとみられる描写が随所に散りばめられている。

作品リスト

 死後、清田洞爺記念館整備時に屋根裏から未発表原稿である『遠い雷の記憶』『悲しき雲』『(タイトル不詳)』が発見され話題となった。これらは清田洞爺全集に収録されている。

長編

  • 春と蛤
  • 塵塚怪王
  • 木瓜
  • 夢の続き
  • 黒衣の王

中編

  • 山童
  • 銀の鍵
  • 擬神談義

短編

  • 爪痕
  • 復讐の太鼓
  • 袋小路
  • グスタフとヴェロニカ
  • 黄色いスカーフ
  • 烏の呼び声
  • 阿頼耶識の歌
  • 塩と味噌
  • ダー
  • 遠い雷の記憶
  • 悲しき雲
  • (タイトル不詳)

清田洞爺記念館

 本町岐間にある清田洞爺の旧居。市道に面したアールデコ調の門が入り口となっているが、この門は近年付け加えられたもので洞爺在住時は市道も開通しておらず邸宅は松林の中にあった。一階部分はミュージアムとして再建されており、清田直筆の生原稿や執筆に使用した筆記具、清田のお気に入りとされる濃紺の半纏などが飾られている。二階部部は執筆活動の様子が覗える書斎が当時のまま残されており、修理の跡が残る木製の椅子や、清田が掻きむしったかとみられる机のひっかき傷などが間近で観察できる。和風建築と洋風建築が混在する建物自体も戦後復興期の街並みが垣間見える文化財として登録候補に挙げられている。入館料は200円であり、団体割引や年間パスポート制度も存在する。

 

洞爺忌

 清田洞爺の没した9月15日を洞爺忌とよぶ。ただし実際は清田は自室で一人孤独死したため正確な没日は分かっていない。洞爺忌には清田洞爺記念館において輪読や特別展が開催されたり、ソーシャルネットワーク上でもハッシュタグ「#今日は洞爺忌」とともに洞爺作品について意見が交わされるなどひそかな賑わいを見せている。

清田洞爺文学大賞

 清田洞爺文学大賞を参照。

清田洞爺.txt · 最終更新: 2023/08/22 08:51 by admin