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見才谷遺跡

見才谷遺跡(みさいだにいせき)

概要

 見高山の山頂付近にある環状列石群と、その近隣から出土した貝塚などの総称である。実態は史跡が見高山全体に広がっていることから、広義には5合目にある真殿山神社より上を指して言うこともある。

 6-7合目付近の史跡の一部については一般来訪者向けに開放されているが、それ以外の対部分は立ち入り禁止区域に指定されており、田瓶市の特別の許可を受けた研究機関しか立ち入ることができない。

環状列石群

 環状列石はストーンサークルとも呼ばれ、陵墓や祭壇として全世界的にみられる史跡である(イギリスのストーンヘンジも環状列石の一種である)。日時計として使われていたとする説や、集団墓地であるといった説もある。日本においても東北地方を中心に多数の環状列石群が発見されており、川原石を二重、三重に配置した構成となっていることが多い。

 見才谷遺跡の中心となっている環状列石は直径約45メートルの範囲に並べられており、規模としては中~大型と言える。人骨等は発見されていないことから純粋な儀式用として成立したものと推察されており、その証拠としてヒトや稲、ヤギと思わしき動植物が描かれた石板が見つかっている。これらの岩は岩質から真殿山で採取されたものではなく、他の山で切り出され持ち込まれたものと考えられている。

貝塚

 貝塚は見高山の広範囲にわたって散在し、ホタテやハマグリや動物の骨の他、人骨も大量に出土している。人骨については魚の骨や貝殻に交じって無造作に埋葬されている点が特徴として挙げられ、「海への信仰から埋葬時に魚の骨を手向けた」という説と「そもそも人の遺体は魚の骨と同様ゴミとして扱われていた」という説があるが真意は分かっていない。通常、関東地方一帯は酸性土であることから人骨等が発見されることは稀であるが、見高山貝塚の一部には石棺のような空間があり埋葬された人骨がそのままの姿で見つかっている。

 銅剣、銅鐸なども出土しており、当時の生活様式や文化をうかがい知ることができる貴重な史跡として歴史研究の対象となっている。出土した人骨からは、当時の体格が再現できる。田瓶の生活者は同時代の人類に比べても特に背が小さく頭が大きい骨格をしており、現代人に比べ目が離れているような風貌をしていたと推察されている。

発掘調査

 遺跡の存在は古くから知られていたが、見高山を神聖視する田瓶市民は深く立ち入った調査をしてこなかった。1972年に若宮国際大学の研究グループを中心として結成された調査団によって約3年にわたる史跡発掘が行われた。この調査団には、田瓶市長の矢後源五郎氏、田瓶図書館館長の阿見テツジ氏、沼田ホテル社長の餌取薫臣氏らが含まれていた。当時の報告については人類学雑誌に投稿されている。

 調査では史跡への影響を配慮し、手作業での発掘作業が行われた。最大で8メートルの深さまで掘削がおこなれた結果、古代の水路跡や寒冷期に建築したとみられる地下住居跡などが発見され、北関東地方の歴史民俗研究が前進したといわれている。  

見才谷遺跡.txt · 最終更新: 2020/01/26 01:05 by admin