海風が運ぶもの@ヤマダ
遅くなりました、ヤマダです。
日々過去に追いまくられる毎日です。明日は昨日の風が吹いている。
風といえば、最近よく風邪をひきます(1か月に1回程度)。
皆さまもどうか体調に気を付けてお過ごしくださいませ。
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お題ですね。『海』。
『海』という、その一言1文字を目にしたとき、
真っ先に思い浮かんだのは(あるいは思い浮かんでしまったのは)、
C.ドビュッシーのクラシック曲『3つの交響的素描「海」』でした。
原題はシンプルに“La Mer”。かっこいいっすね。
よく私がいたころの吹奏楽界隈で取り上げられていた作品でもあり、
良曲ではあるのですが、結構手垢のついてしまっている印象も持っていて、
それが合わさってなんとも言えない、この曲に対する微妙な違和感、
あるいは居心地の悪さ、ばつの悪さみたいなものをずっと感じている曲でもあります。
それがつい“海”という単語から最短距離で呼び起こされたのですかね。
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ただドビュッシー、とても好きな作曲家の一人です。
代表作の2つのアラベスクより第1番は、きっと聞いたことのある人が多いはず。
(ちなみに個人的には2つのアラベスクの第2番がすごい好きです)
改めてウィキベディアを見たりしてみましたが、本人の発言として、
『音楽の本質は形式にあるのではなく色とリズムを持った時間なのだ』
という言葉が掲載されていました。なるほど、という感じ。
一般にクラシックという場合に想像しがちな、
音楽理論とリズムで論理的に構築された理屈の音楽ではなく、
感性に全振りした、感情論での作曲のトップバッターだと思います。
聞いてたり弾いてたり吹いていると快楽物質がドバドバでる感じ。
芸術は今や天賦の感性やセンス、感情や情動でつくるもの、という理解がまかり通っていますが、
古来のものを見ると、割とロジカルというか、論理で構成されていたり、
“知識階級のお遊び”なんだろうな、というものをひしひしと感じたりします。
そこに一石を投じたという意味ではドビュッシーはとても強いなと思いますが、
果たしてその後の芸術=感性、という方程式には疑問を感じなくもないですね。
どうなんでしょうか。
肋骨蜜柑の公演、は、論理と感情でけっこういつも揺れている印象があります。
みなさんにはどちらに見えているのでしょうかね。論理派?感情派?
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すっかりお題とは関係ない方向に話がいってしまった気がします。
実際の海については、私あんまり接点がなくていまいち自分の中にイメージがありません。
しいて言えば、中学生の時に旅行で行った、網走から見た灰色のオホーツク海くらいでしょうか。
曇り空と、何かの骨や死骸、海藻なのか何なのか、異国のゴミが打ち捨てられ、
どこまでの続く白色交じりのグレーの砂浜、波の音がどこまでも。
海、というものが持つ豊かさとは対極のイメージを有している気がします。
▲まさにこんなイメージです。試される大地。
(出典:ブログ版 水野義則Times : 第13回健康都市連合日本支部大会2日目-今日のヨッシー(2017/07/05)、うるてぽのページ | うるてぽのブログ一覧 | – みんカラ)
他のメンバーはきっともっと素敵でHAPPYな海体験を有しているのでしょうね。
今日も一日おつかれさまでした。ヤマダでした。