せっぽうのじかんだごらあ@ほとけ
おはようございます
ほとけです
最近、日付機能の調子がおかしいのです
このままでは昨日の明日が今日になってしまうかもしれません
というわけで火曜日はほとけの説法の時間です
なにを話すのかわからんと思いますが、ほとけもわかっていないので問題ありません
んー、じゃあ、なんかそれっぽいことでお茶を濁すか
「青い鳥」というお話があります
名前とあらすじくらいは聞いたこともあるでしょう
もとはメーテルリンクと言う人が書いた戯曲です
チルチルとミチルという兄妹が飼い犬や飼い猫、それに光やパンや水や火と青い鳥を探しに冒険に出て、いろいろなところに行きまして、最後には自分たちの家で飼っていた鳥が探していた鳥だとわかるというお話です
最近では自分にもっと合った仕事があるんじゃないかと、転職を繰り返すことを「青い鳥症候群」なんて言ったりもしましたね
(なんかリンク先の「青い鳥」のあらすじ紹介には悪意を感じますけれども)
この話から導き出される教訓としては一般に「幸せは身近なところにある」であると言われています
まあ、そうなんでしょうけれども
でも、なんだかどうなんでしょうね
それでは兄妹の冒険は全くの無駄で、「身近な幸せ」を引き立たせるためだけのものだったかというと、そうではないと思うのです
「お別れ」の場面があります
探していた青い鳥はついぞ見つからず、家に帰ることになり、それまで一緒に旅をしてきた仲間たちである、犬と猫と光とパンと水と火が、ただの物言わぬ犬と猫と光とパンと水と火に戻るので、別れを惜しむという場面です
犬は「いやだ。いやだ。おれはいやだ。おれはいやだ。いつまでもお話をするんだ」と駄々をこねます
犬は作中において、いささか…その…頭のまわらない性質を持ち、それゆえに正直であるという立場で描かれています
ので、これは他の仲間たちの感情を極端にしたものであると考えられます
実際、この場面の最後のト書きには兄弟と仲間たちは涙ながらに退場すると書かれてあります
そのあたりを見ると、冒険はそれなりに苦しくも楽しいもので、最後に青い鳥が自分の家にいた鳥だとわかるのは、冒険の報酬としての意味が強いのではないかなと思います
たとえば、最後の場はこのようなト書きで始まります
第一場と同じ家の中、しかし、壁やそのほかのすべてが前とは比べものにならないぐらい、ふしぎにいきいきと、気持よく、楽しげに見える。朝の光がとざされたよろい戸のすきまから明るく差し込んでいる
うん、このト書き地味に鬼だな、どうやるんだろ
あ、
いや、
というわけで、冒険が無駄であったなら家はこんないい感じに見えないのですよ
いろんなところに行ったから、身近にある幸せが分ったのだし、疲れも恐怖も擦り切れもそれらなしには幸福も見つからなかったのです
だから、全体として脚本に書かれてある教訓は「幸せは努力しなければ手に入らない」の方じゃないのかな思います
かと言って転職を繰り返すのが適切な行動かどうかはしりませんけどね
そんな感じです
なぜこんな話をしたかって?
たまたま読んだからさ
では、また
やるのかな?
この記事を書くにあたって以下の本を参照しました
モーリス・メーテルリンク、1960、『青い鳥』堀口大學訳、新潮社