2020年肋骨蜜柑同好会、最後の日@とむ

 優しく吹く風が、春の訪れを告げていた。
 頬を撫でる風を感じ、フジタは意識を取り戻す。
 -―思えば、遠くまで来たものだ。
 事務所の主宰室で朝を迎えたフジタは、妙に冴えた頭に複雑な思いを巡らせていた。今日でこの主宰室も社長室へと名称を変える。2020年X月X日は劇団肋骨蜜柑同好会が、<肋骨蜜柑株式会社>に生まれ代わる日だった。

 大学生数名の集まりとしてスタートした肋骨蜜柑も構成員30余名を数えるまでに成長した。2本柱である公演事業、プロデュース事業は近年いよいよ好調に推移し、次会計年度からは養成所事業に乗り出すことが決定している。
 個人に目を落としても、役者兼アイドルとして地位を確立した者、スタッフとしての才能を開花させた者、悟りを開いた者と、各人の著しい成長には目を見張るものがある。個性あるメンバーが一つの目標のために協調してきたからこそ、今日の肋骨蜜柑があるのだと誰もが信じて疑わない。

 <肋骨イニシアチブ3.0>と呼ばれる株式会社設立計画を初めに提唱した”とむ”は、3年前凶刃に斃れ帰らぬ人となった。奇しくもこれが団員の結束を深め、結果として目標の達成に質したとは皮肉なことである。
 -―これは新たなスタートであって、ゴールではない。
 もし、”とむ”が会社設立の場に立ち会っていたらそう言うだろう。今や肋骨蜜柑の事業ポートフォリオには出版、映像、劇場建設をはじめとする野心的な計画が並び、次なる目標である株式上場に向けて感傷に浸る暇はない。

 一見して順風満帆に見える肋骨蜜柑だったが、フジタの胸中には喉に刺さった小骨のように呑み込めない何かがあった。 将来に対する唯ぼんやりした不安。根拠のないそれは言葉では言い表せないほど些細な何かではあったが、それでもフジタの感性は警鐘を発していた。

 石神井公園を臨む主宰室の窓からは、朝の心地よい日差しが差し込んでいる。耳を澄ますと鳥の囀りに混じり、子供たちが遊ぶ声が聞こえてくる。この子供たちにも明るい未来が待っているに違いない。医者か、スポーツ選手か、宇宙飛行士か。
 しかし、と思う。
 その未来を実現した”元”子供たちは何を思うのだろうか。

 刹那、フジタの中で一本の糸が音を立てて切れた。津波のように押し寄せる感情に居ても立ってもいられなくなり、裸足のまま事務所の外に飛び出す
 そこには、今まさに同じ気持ちを抱えて駆け付けたメンバーの面々があった。
 ヤマダ、笹瀬川、青年、桜、海月里、ケイ素。
 皆、大学時代と変わらない風貌で、輝かせた目を隠そうともしない。自分たちが”肋骨蜜柑”であることを、自らの内に留めておくことは最早不可能だった。
 彼らは無言で頷くと、誰からともなく全速力で走りだした。
 優しく吹く風が、春の訪れを告げていた。
(続かない)

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