どこ見て歩きゃあ褒めてくれんだよ、どこ見て歩きゃあよぉ!
こんにちは。毎日暑いですね。フジタです。
肋骨蜜柑同好会、第5回に向けて動き出してはいます。一応、年内予定、なのかな。
今回から、劇団のプロデューサー業を劇団員の山田に託しました。次の公演も、今までとはちょっと(いや、だいぶ?)違う趣向になりそうです。肋骨蜜柑同好会、いろいろ転機です。
最近いろいろ考えます。
我々は、僕は、どこに向かって走っていけばよいのか。
この勢いに乗っていかなければならない、ということはわかっているのです。走らなければ。おいて行かれてしまう。
でも何に?誰に?
そして、どこに向かって走るの?
この世界に、僕が生まれ、存在したのだという証明を、自らの手で行わねばならない。
「不在の僕は、僕が証明する」これは僕が大学を中退するとき、卒業公演として行ったオムニバス公演の、最後の一本として提供した脚本に、僕が書いたセリフです。
僕が演劇をやることに理由があるとするなら、それはたぶん、これにつきます。
不在の僕を証明すること。
どこかに向かってがむしゃらに走っていなければ、戦っていなければ、僕はどこにもいなくなってしまう。
足を緩めている暇などないのに、なんだろう、この、この、どうしようもない、緩やかな時間の流れは。
死ぬために演劇をやっているのだ。それはすなわち、生きるためにやっているのだ、とも言い換えられる。
死ぬこと、生きることと、演劇は、もはやイコールであり、不可分であり、そのものだ。僕にとっては。
でも、劇団にとって違う。劇団員にとっても。
その、距離感。
僕は肋骨蜜柑同好会を僕だけの所有物にはしたくない、と思っています。だからこそ、今回この改革に踏み切ったわけです。
そして僕は、僕について考えなければいけなくなりました。
どうしたらいい。明日はどっちだ。明日は。どっちだ。
がんばります。負けないんだから。