地蔵祭
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地蔵祭 [2019/01/08 18:16] – 外部編集 127.0.0.1 | 地蔵祭 [2022/07/22 16:20] (現在) – [地蔵祭(じぞうさい)] admin | ||
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====== 田瓶市の祭り ====== | ====== 田瓶市の祭り ====== | ||
===== 地蔵祭(じぞうさい) ===== | ===== 地蔵祭(じぞうさい) ===== | ||
- | 田瓶市は地蔵信仰が深く根付いた地域であり、市の各地に地蔵が見られる。また、市内の神社にも沼田山地蔵尊、身道大社をはじめとする地蔵を祭った摂社・末社も多く存在している。地蔵祭はそれらの神社、信仰主体が一体となって作り上げる、「まんだら灯籠祭り」と並ぶ田瓶市を代表する祭りである。地蔵祭は地蔵盆である毎年8月24日(実際はその周辺の土日)に行われる。 | + | 田瓶市は地蔵信仰が深く根付いた地域であり、市の各地に地蔵が見られる。また、市内の神社にも沼田山地蔵尊、身道大社をはじめとする地蔵を祭った寺院も多く存在している。地蔵祭はそれらの神社、信仰主体が一体となって作り上げる、「まんだら灯籠祭り」と並ぶ田瓶市を代表する祭りである。もともと地蔵祭は地蔵盆である毎年8月24日(実際はその周辺の土日)に行われていたが、「まんだら灯籠祭り」が行われる9月初週を避けるように日程が調整され、現在は7月29日前後に開催されている。 |
江戸時代から始まった風習であるが、戦後の財政難の折に開催が中止されて以降長らく開催されてこなかった。しかし平成に入りバブルが崩壊されると地元への帰属意識が高り、地蔵祭の復刻の声が上がったため43年ぶりに再開されることとなった。 | 江戸時代から始まった風習であるが、戦後の財政難の折に開催が中止されて以降長らく開催されてこなかった。しかし平成に入りバブルが崩壊されると地元への帰属意識が高り、地蔵祭の復刻の声が上がったため43年ぶりに再開されることとなった。 | ||
- | 祭事期間中は各協賛寺社にて縁日が開かれるほか、盆踊り、神輿、山車、ちびっこ相撲といった催し物が開かれる。最終日には赤川花火大会が予定されている。最大の見どころは「数珠神輿」であり、田瓶市の各方面から山野辺の身道大社に集った多数の神輿が数珠つなぎになって会場を周回する圧巻の見世物となっている。 | ||
- | ===== まんだら灯籠祭り(まんだらとうろうまつり) ===== | + | 祭事期間中は各協賛寺社にて縁日が開かれるほか、盆踊り、神輿、山車、ちびっこ相撲といった催し物が開かれる。参道に古米をばらまき、秋の収穫を願うとされる。最終日には赤川花火大会が予定されている。最大の見どころは「数珠神輿」であり、田瓶市の各方面から山野辺の身道大社に集った多数の神輿が数珠つなぎになって会場を周回する圧巻の見世物となっている。 |
- | 9月上旬に沼田町の荒神神社で9月上旬に開催される荒神神社の主祭神である権現様を祭る催事である。荒神神社の参道を中心に設置してある普段は利用されない200以上の灯籠に一斉に点火され、一帯を明るく燈し出す。また、回廊のあちらこちらに提灯が飾られれ、祭りの最後で篝火が焚かれるとさながら昼間のような明るさに達する。 | + | |
- | 大々的なイベントは週末に行われるが、催事自体は1週間前から執り行われており、「シン」と呼ばれる沼田地区の若い男から選ばれた依代が七日七番の間火が消えないように見張る。この風習は江戸時代から始まったとされる。「シン」と呼ばれる若い男性が伴侶を弔うために始まったのが起こりとされるが、詳細は分かっていない。 | + | ===== 起源 ===== |
+ | 鎌倉時代末期、田瓶を流行り病が襲った。罹患した者は高熱を発し、喉が潰れ、皮膚が黝(あおぐろ)く硬化する恐ろしい病であり、ひとたび病魔に侵されると生存は絶望的であった。誰もが看病を諦めていたが、とある小さな寺の住職だけは患者に寝床を開放し、食事を与え、患者のために読経を続けた。その成果もあってかある時から新たな患者の出現はハタと止まった。最後の患者がこの世を去ると、後を追うように住職も息を引き取ったのだった。 | ||
- | ===== 千本菖蒲(せんぼんしょうぶ) ===== | + | 田瓶の住民は住職の功績をたたえ近くに寺社を建立した。これが現在の沼田地蔵尊、身道大社の前進と言われている。また病魔が二度と田瓶の地を蝕まないよう、年に一度地域に散在する地蔵尊を清めお経をあげる風習が根付いた。これが地蔵祭の始まりとされる。 |
- | 5月第3土曜・日曜は千本菖蒲と呼ばれる。あやめが丘公園は整備された人工の公園であるが、もともとは野生のあやめが高密集に群生する地帯だった。ここに限らず田瓶市はあやめ、菖蒲、かきつばたといったアヤメ目の植物が多く見られるため、これらが咲き乱れる季節の到来を祝って祭りが開かれる。 | + | |
- | 祭り期間中は、「町全体があやめに色に染まる」を合言葉に、銭湯や温泉での菖蒲風呂、公園でのあやめの苗の振る舞い、ラベンダーアイスクリームの提供など、田瓶市のあちこちでイベントが開催される。 | + | ===== 沼田山地蔵尊 ===== |
+ | 田瓶警察署沼田署の裏手にある寺社。正式には岩科寺というが地域住民からは「じぞうさん」と親しまれている。本尊は名前のとおり地蔵菩薩であり、山門にある仁王像は運慶作とも言われている。1800年代に「地蔵堂」という名前で開かれ、1870年に岩科寺と改称された。八角堂内に阿弥陀三尊来迎図をかたどった碑が安置されている。境内には茶室があり、春には紫陽花が鑑賞できる。 | ||
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+ | ===== 身道大社 ===== | ||
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+ | 本町にある神社。正式には「身道愛宕神社」という。通常「大社」は全国に多数ある同名の神社をとりまとめる役割を持った神社を指すが、田瓶地区各地にある地蔵、道祖神の総本山、というイメージから名付けられた名称と推定されている。主祭神はその名のとおり迦遇槌命(かぐつちのみこと)であるが、愛宕山(あたごやま)の勝軍地蔵を勧請したとされ、神社でありながら地蔵尊の印象が強い神社である。 | ||
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+ | ===== 地蔵祭を巡る論点 ===== | ||
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+ | 地蔵祭は今でこそ田瓶市を代表する祭事であるが、幾度か中止の危機に瀕してきた。成立直後の江戸時代中期、身道大社と沼田山地蔵尊が起源を巡ってそれぞれの檀家、氏子が対立し、死者十余名を出す抗争が勃発した。沼田地蔵尊の庭に火がはなたれ、あわや大火事に発展する事態となった。その後住民は和解しているが、その証拠として身道大社と沼田山地蔵尊それぞれに抗争の犠牲者を祭る同型の石碑が建てられることになった。 | ||
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+ | 明治時代になると神仏分離により神社が仏を、寺が神道の神を祭ることが禁止された。成立より加具土命と地蔵菩薩を祭っていた身道大社は、鳥居の再建や仁王像の沼田山地蔵尊への譲渡などを余儀なくされた。幸い、地蔵信仰の本丸として祭ってあった境内の地蔵像は元の姿が分からないほど浸食が進んでいたため、注連縄をくくらせた岩境として道祖神と同等の扱いを受けることで手放す事態を回避することができたと伝えられている。 | ||
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+ | 最も危機は前述の戦後の資金難である。古米を参道にばらまく行為がとりわけ戦後の食糧難の状況下では言語道断とされ、華美な花火もやり玉に挙がったためである。中断期間は50年にもおよび、その伝承者も途絶えたかに見えた。そこで立ち上がったのが地元老人会から発展した「椿の会」である。10代、20代で地蔵祭を経験していた老人たちを中心にして神輿の再建や町民に対する神楽の教習を実施。「椿の会」の尽力により失われかけていた地蔵祭を再開することができたのである。 | ||
===== 停電の日 ===== | ===== 停電の日 ===== | ||
8月お盆あけの水曜日、夜8時から翌3時まで田瓶市内を消灯し、キャンドルを焚いて過ごす日である。病院や消灯を除き電源が落とされるため、市内は文字通り闇に沈む。 | 8月お盆あけの水曜日、夜8時から翌3時まで田瓶市内を消灯し、キャンドルを焚いて過ごす日である。病院や消灯を除き電源が落とされるため、市内は文字通り闇に沈む。 | ||
1958年の本間町の大火で電力供給が途絶えた際に一週間近くに渡って電気がない環境での生活を余儀なくされた。その時の教訓として、また月明かり、星明かりを楽しむために毎年行われる。停電の間はアコースティックライブやストーリーテリングなどが各所で開催される。 | 1958年の本間町の大火で電力供給が途絶えた際に一週間近くに渡って電気がない環境での生活を余儀なくされた。その時の教訓として、また月明かり、星明かりを楽しむために毎年行われる。停電の間はアコースティックライブやストーリーテリングなどが各所で開催される。 |
地蔵祭.1546938980.txt.gz · 最終更新: 2019/01/08 18:16 by 127.0.0.1